暮しの手帖 第二世紀』(46号〜50号)5冊入荷しました
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30年も前の『暮しの手帖』。1977年というとちょうど上の子どもたちが生まれた頃だ。そのころに比べて、暮しはどんなふうに変わったか、変わらなかったか。
モノは増えて豊かになったように見えるが、「ふだん着の暮し」の内実はどうだろう?「ものみな悪くなりゆく」という一文で当時の花森安治編集長は豆腐の味やLP社のソースの味がまずくなったことによせて、「ふだん着の暮し」がないがしろにされている日本の政治を嘆いている。

暮し、というものは、もともと、これは、ふだん着なのだ。…その(とうふの)味が、どんどんわるくなっていくのには、だれも、なんにもいわない。とうふがまずいのは、外国の大豆を使うからで、仕方がないことだ、とケロッとしている。
国産の大豆を、もっと作ることはやる気ならできる。それが政治というものだ。それをやらないのは、とうふの味なんて、どうだっていいじゃないか、という気分で政治をやっているからだ。
なにか、もっと外にやらねばならぬとい、緊急且重要なことが山とあるような気が気でいるからだ。じつは、そんなものは、一つもない。そんなことで、暮しを大切にする政治なんて、どうしてできるというのか。
(『暮しの手帖 第二世紀48号』102ページ「ものみな悪くなりゆく」より)

暮しを人に置きかえてみるといい。変わっていないどころか、ますますいやあな気分になってゆく、この頃。
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